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近世街道と瀬高宿

 日本地図特集 徳川治世諸国道中細見絵図集  父子ともに柳川藩士として元禄5年(1692)御書院番に登用された。
元禄8年(1695)父惣助が普譜役で、今も残る北山の千間土居と呼ばれる堤防を新設した時、子惣馬が助手役となり完成した。30余年間水利土木にある限りの力を注いだ。享保5年(1720)藩内御普請役に任ぜられた惣馬の主な業績には、本郷村権現のはね・磯鳥の井堰・浜武村崩道瓢箪門・高碇井堰・唐尾のはね・三潴御門(藩営干拓工事)や瀬高川掘替え工事がある。
惣馬はその職に忠実のあまり、相当苛酷に人夫を使ったらしく当時はかなりの悪評もあったと云われる。

 
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「伊能忠敬測量日記」部分

 (これは、伊能忠敬が著した「測量日記」の内、現在の瀬高町に属する部分を抄出したものである。)

 
 
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職人町としての瀬高

 中世以来、矢部川河口から有明海を介して対外交渉の基地となり、近世薩摩街道と呼ばれた南九州へ通ずる交通の要衝であった瀬高は、柳川藩の物資集積の中枢として上庄を中心とした町屋が形成され、商工業の著しい発展が見られる。現在でも、「酒造の町」として著名であるが、かつては、鋳物・製瓦・和紙・製蝋等々藩内・近隣の需要を満たす諸職人の生産工房が軒を連ねていた。
 
和国諸職絵つくし
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近世瀬高の村落生活

禅院村絵図  江戸時代に入ると、戦乱の傷も癒えて平穏な時代を迎える。瀬高も柳川藩領の水陸交通の要衝として、上庄・下庄の町屋を中心に発展していく。この町屋の繁栄を支えた周辺村落は、肥沃で湿潤な耕地に恵まれ、比較的に安定した約70ヶ村(この内現瀬高町に属する村は約40ヶ村)が本郷・竹井・小川の大庄屋組に編成されて、穀倉地帯農村としての発展を遂げた。
 
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近世瀬高の文化と人

 江戸時代の瀬高は、柳川藩の商業交通の拠点であり、また、南九州から長崎街道にでる道筋でもあったから、人物の往来・文物の流入も多かった。
 例えば、黒田藩の儒学者亀井昭陽の筆跡が上庄八坂神社に残されているし、西原一甫は清水の「雉子車」を「耽奇漫録」に紹介している。また、安政3年(1856)には、熊本藩八代城代であった松井章之が江戸城に登る途中、上庄で宿泊し、清水観音に参詣している。
一方には、近世初期に筑後に伝わった「幸若舞」が大江の村に松尾増澳に依って根付いていた。その他、所々に残る碑文など和漢文人の足跡が偲ばれる。
 
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島堀切と御茶屋屋敷

 柳川藩は耕地確保のための干拓事業に精力を注ぐが、有明海に河口を開く矢部川の流路整備は水運上重要課題であった。
 柳川再封25年後の正保2年(1645)迄に、現在の流路より東を流れる河道を西方へ掘替え、津留村を東西に分断し泰仙寺村と浜田村を接続させると共に、三池郡境を流れる飯江川の流入口を延長させるため、堀切を南北に掘分ける大土木工事を実施している。また、陸路は柳川城下から領内東部への主要幹線として、略現在の国道443号に沿って道路整備を加え、一里毎に里程石を据えると共に、瀬高上庄には公営屋敷御茶屋屋敷を設置して、藩主の巡検・役人の往来などに供する施設とした。
 
島堀切絵図 御茶屋屋敷絵図
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立花宗茂と柳川藩の成立

立花宗茂画像 筑前大友氏の拠点であった立花山城(現福岡市東部)で、島津氏の猛攻を独力阻止した立花宗茂は、実父高橋紹運・養父戸次道雪の勲功もあり、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定に伴い、南筑後約12万石の領主として、柳川に封じられた。その領域は文禄4年の「知行目録」によれば、略々現在の柳川市・山門郡及び、その周辺部であった。その後関ヶ原の合戦に西軍に属したため除封され、元和7年(1621)に至って旧領柳川に10万石で再封された。
 
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