資料館利用ガイド 常設展示室 みやま市の文化財 郷土の人物 リンク集
図書マークは図書館ページへリンクします。

田尻惣助・惣馬父子

 田尻惣助・惣馬の墓  父子ともに柳川藩士として元禄5年(1692)御書院番に登用された。
元禄8年(1695)父惣助が普譜役で、今も残る北山の千間土居と呼ばれる堤防を新設した時、子惣馬が助手役となり完成した。30余年間水利土木にある限りの力を注いだ。享保5年(1720)藩内御普請役に任ぜられた惣馬の主な業績には、本郷村権現のはね・磯鳥の井堰・浜武村崩道瓢箪門・高碇井堰・唐尾のはね・三潴御門(藩営干拓工事)や瀬高川掘替え工事がある。
惣馬はその職に忠実のあまり、相当苛酷に人夫を使ったらしく当時はかなりの悪評もあったと云われる。

 
前に戻る

矢部川治水の歴史

 千間土居  クスノ木
   

近世矢部川治水年表

 近世矢部川治水年表  
   

矢部川筋井堰及び回水路見取り図

 矢部川筋井堰及び回水路見取り図    
前に戻る

矢部川の猛威と恵み

 南筑後を貫流する矢部川は、沖積平野の沃土を潤してきた。また一方で、流域住民に与えた水難の恐怖は底知れないものがある。 中世以来、幾度となく人と川との戦いが繰り返されてきた。矢部川の水を宥め潅漑用水として取込むことが、有史以来の課題であった。本格的な治水と利水の対策が講じられたのは、皮肉にも川を夾む柳川・久留米両藩の水争いからである。近世、両藩ともに自領の水害対策と良田開拓のために、井堰・廻水路の敷設競争を繰返すが、その結果9ヶ所の井堰と廻水路が開設され、両岸に広大な美田が形成されて、今日屈指の穀倉地帯が残されることとなった。 その代表的事業として世に喧伝されるのが、柳川藩営事業である田尻惣助・惣馬父子の千間大土居・蒲池山大築堤の築造である。
 
前に戻る

南筑後災害年表


 福岡測候所編「福岡県災異誌」・立石 嵒編「福岡県近世災異誌」より
 
前に戻る

幕末期柳川藩の動向

 嘉永年間(18世紀中期)以降、政情不安に対処するため各藩共に領内農村から農兵を微用するなど、藩政改革・人材登用を行うが、柳川藩でも諸隊の結成が行われ、鉄砲隊等が組織される。その後、倒幕運動が激化する中で家老立花壱岐等は、藩論の混乱を抑えて対外的に中立を堅持して積極的な行動を採らず、大勢が天皇新政に傾くと倒幕軍の一翼として英隊等を組織し北越戦役に従軍する。
その一例として、蒼龍隊の遺品が瀬高町内でも伝承されている。
 以後、明治新体制の中に組込まれ、柳川藩→柳川県→三潴県として明治初期を迎える一方で、全国的な民権運動の胎動に呼応して領内にその拠点が形成され、全国民権運動の支柱となっていった。
 
 
前に戻る

幕末期の人物像

 太平の世に突然四艘の黒船が来航して、世情騒然とした幕末期を迎える。柳川藩も、海辺防備のために房総習志野への出兵が要請される。次いで、幕命に従わない長州への征討令が下る。遂いには倒幕の熱気が蔓延し、否応なく動乱の渦の中へ追い込まれていった。瀬高でも、藩の諸隊編成に参加して軍夫として、藩士と共に各地に転戦する者、混乱した世情に警鐘を鳴らして、子弟教育に情熱を傾ける者、近代地主への転身をする者などが出てくる。国学・漢学を問わず五指に余る私塾が農村の中に開設されていった。
 近世幕藩体制の基底が変貌する中で、彼等の内から次の時代を背負う人物が輩出されてくる。それは最早旧体制の支配層からではなく、市井の庶民層の中で育てられた人々であった。
前に戻る

幕末期の郷土人

沖邸 沖 平六 (1799~1867)
 小田村の人。富豪家であったが、慈善家として知られ、藩の窮乏を救うために再々献金するなど、藩の財政に寄与した。また、土木事業に熱心で、藩用その他公共事業あるいは慈善事業に投じた私財は巨額にのぼり、子孫に残した資産は父祖から譲られた財産の過半を減らしていたと云う。維新前夜の慶応3年69歳で没した。
 
壇 秋芳墓 壇 秋芳 (1805~1886)
 吉井村の人。本名采次郎。家貧しく苦学して漢学を修め、柳川藩儒者牧園茅山に師事し、嘉永元年(1848)吉井に私塾を開き、援助を得て「鶴鳴堂」を建てて子弟教育に務めた。さらに、明治元年(1868)には本郷番所の建物を移築して「菁莪堂」を併設し、吉井塾の名は近隣に聞え、就学する者多数に及ぶ。明治5年(1872)学制公布により、塾を閉じる。明治19年82歳で没した。
 
清水三重塔 田北 隆研 (1825~1883)
 本吉清水寺住職。江戸上野寛永寺で天台宗を修め、慶応年間に清水寺住職となる。維新後寺領山林が没収されることとなり、これに抵抗して寺領として保留することに成功し、山林を開墾して養蚕・製茶に力を注ぎ、明治16・7年頃には10町歩に及ぶ茶畑を経営していた。茶業組合を結成するなど、地元の勧業奨励に努めた。明治16年59歳で没した。
 
明倫堂跡 西田 幹治郎 (1831~1908)
 金栗村の人。庄屋を長年務めた。若年より学問に務め、壇秋芳に師事後、横地玄蕃の龍山義塾に入門し、金栗に私塾「明倫堂」(麗川義塾)を開く。塾生数百名を指導したが、明治6年(1873)の学制施行により閉鎖となる。藩校の孔子像を預かり、明治27年(1894)以来春秋二回の孔子廟祭典を厳粛に挙行した。明治41年78歳で没した。
 
前に戻る


▲ PAGE TOP