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常設展示室
みやま市の文化財

 

みやま市歴史資料館 常設展示室

常設展示室の概要 
 常設展示室では、みやま市の中でも瀬高地区の歴史的遺品について展示しています。
内容としては、「矢部川」と国指定史跡「女山神籠石(ぞやまこうごいし)」に焦点をあてた
構成になっています。

神籠石の謎に迫る
旧石器時代の瀬高
旧石器時代の遺跡分布
縄文時代の暮らし
縄文時代の遺跡分布
弥生時代の暮らし
弥生時代の遺跡分布
古墳時代の暮らし
古墳時代の遺跡分布
瀬高の地理を探る
地名の残る昔の海岸線
高田〜大和の干拓と大土居
矢部川の旧河道
郡衙の推定地と条里制の跡
延喜式に記された瀬高
清水寺縁起
矢部川と筑後のあけぼの
 瀬高は南筑後平野の南東に位置し、自然が豊かに息づく環境にあります。広大な緑野を潤しながら有明海に注ぐ矢部川によって、瀬高は縄文時代以来、豊かな耕地に恵まれ南筑後の穀倉地帯として歴史の舞台に登場してきました。 瀬高の北東の丘陵部には、旧石器時代の生活跡が数多く確認され、南筑後では最も早い時期に集落が営まれた地域であったと考えられます。目の前に広がる豊かな土地にひきつけられた縄文時代〜弥生時代の人達は、山のふもとから平野へと生活の場を移動させていきました。縄文時代中・晩期の遺蹟の上には弥生時代の農耕集落の跡が多数発見されています。奈良時代を迎えると山門郡衙が置かれ条里が走り、矢部川沿いまで集落が点在して、平安時代後期の荘園形成の基盤となっていきました。

      荘園と中世起源の寺社
      荘園と土豪(城砦)
      中世都市としての瀬高
芳司のにぎわいと瀬高の庄
 平安時代後期、瀬高庄・小川庄などが古文書に確認されています。後徳大寺を領家として経営された瀬高庄は、荘国鎮守鷹尾八幡宮の矢部川沿いの開墾によって、河口から下流域一帯に広大な荘園となっていました。また、有明海から川をさかのぼる河川輸送が発達し、川沿いに貨物の集積と交易の市を芽生えさせます。現在、芳司に残る「恵比須の碑」はその名残りです。町家が発達し、数々の商人・職人座が営まれていました。また、蒲池氏・田尻氏などの戦国武将の拠点として、多くの寺社が建立されていきました。

近世街道と瀬高宿
「伊能忠敬測量日記」部分
職人町としての瀬高
近世瀬高の村落生活
近世瀬高の文化と人
島堀切と御茶屋屋敷
立花宗茂と柳川藩の成立
田尻惣助・惣馬父子
矢部川治水の歴史
矢部川の猛威と恵み
南筑後災害年表
幕末期柳川藩の動向
幕末期の人物像
幕末期の郷土人
柳川藩の交易場として
 豊臣秀吉の九州統一によって戦国時代に終止符が打たれ、立花氏の藩地として近世を迎えると、瀬高町域は本郷組(内10ケ村)・小川組(19ケ村)・竹井組(内7ケ村)と3大庄屋組の支配下に36ケ村となって、藩内有数の穀倉地として経営されていきました。その村高は明治元年の記録で22,154石余りと記されています。また、瀬高上庄町・瀬高下庄町の2町は、町奉行の支配下に商工業者の家並みが連なり、駅家と駅馬を配置、陸問屋・浜問屋が設営された藩内交易の拠点として栄えました。

大道端遺跡
 縄文時代中期から奈良時代に至る重層遺蹟として知られる「大道端遺蹟」は、沖積平野を耕地として開墾していった古代人の足跡を示す貴重な住居群遺蹟である。生産工房を持つ比較的に裕福な自然村落だが、律令下の条里整備によってて崩壊している。
条里の広がり
 班田収受法の実施に伴って整備された条里の遺構が、瀬高町内で3ブロック(本郷地区・中西部・本吉地区)確認されるが、各条里の方位の相違から条里制以前の開墾が矢部川沿いに広範に及んでいたことを示している。
荘園の分布
 瀬高庄は大治6年(1131)に成立した瀬高町・大和町・三橋町にまたがる広大な荘園であり、22の名田から成立っていた。その他、宇佐八幡宮領の小川庄・香椎社領の本吉庄・太宰府安楽寺領の長田庄・坂田庄などがあり、富裕な土地柄であった。
座の形成
 矢部川の水運によって発達した芳司付近の町家を中心に陸路が縦横に延び、肥後路・久留米路・八女路・三池路が形成され、秤座・油座・金座・白金座・土器座・小物座・藍物座があり、高良社大祝家の支配を受け、小中世都市の様相を示している。
商家の発展
 上庄・下庄両町は柳川城下商家の商品供給基地として、藩の公用施設として「浜屋敷」・「御茶屋屋敷」が設置されていた。また、近世交通網の要として吉井・本吉・小田にも商家・旅籠が立ち並び、酒造・油・糀・蝋・飴などの製造業が史料に見える。
矢部川の利水と治水
 矢部川の治水は、近世農村にとって死命を制する重要課題であった。このため田尻氏を始めとして多くの人々が堤防・井堰を築き河道流路の開削に関わり、現在の矢部川水路を維持してきた。その代表的遺構が津留〜島堀切間の河道付替え工事である。
交通網の拠点
 交通の要衝であった瀬高の地には、多数の文人・学者も足を止めている。熊本藩八代の松井氏が上庄本陣に仮泊し、伊能忠敬が地理調査の起点を置くなど、瀬高は南筑後の拠点として、特に肥後街道と長崎街道の連結路として、他藩にも知られた宿駅であった。

矢部川
 矢部川は、全長57.8キロメートル、流域面積704.5平方キロメートルの福岡県下第3位の大河である。水源を大分県日田郡前津江村と八女郡矢部村境の釈迦ケ岳(標高1230.8メートル)として、筑後川の南を耳納山麓を挟んで並行して北西に流れ、黒木町で西に向きを転じ南筑後平野を瀬高町で南西に蛇行しながら、三池郡高田町永治開で有明海に注ぐ。上流で御側川・樅鶴川・剣持川・笠原川・田代川などを、中流で星野川・辺春川・白木川・飯江川などを合流する。また、井堰で山ノ井川・花宗川を分水、下流で沖端川を分流する。矢部川水系の1級河川は計21あり、流域内に3市3郡(9町2村)を包含する。 江戸時代は久留米藩と柳川藩の藩境として「堺川」と呼ばれ、両藩の利水・治水上での争いが繰り返され、相互に井堰・回水路・堤防の築造・改修が重ねられた。また正保2年の河道改修・田尻父子の大土居築造など矢部川と人々の関わりを示す土木遺構が数多く残されている。
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